YONE NOGUCHI people  

レオニー・ギルモアの伝記作者へのインタビュー

2010年12月11日に、伝記作者エドワード・マークスは、レオニー・ギルモア翻訳プロジェクトメンバーからの質問に答えた。

レオニーが教えていた
ニュージャージー州の高校にて

Q. マークス先生、レオニー・ギルモアの伝記的な事柄について少々伺いたいのですが、まずレオニーはどこで生まれたのでしょうか?

A.出生証明書と、彼女の書き遺した未発表エッセイから推測すると、生まれたのはニューヨークのイースト・ヴィレッジ、聖ブリジット教会裏手の横丁のようです。ちょうど1873年の恐慌の時で、アイルランドからの移民であった父親は失業中でした。

Q.彼女は大変聡明な女性だったようですね。

A.そう、それにとても勤勉な学生でしたね。同時に彼女は、教育に関しては大変ラッキーでした。彼女はとても貧しい生まれだったのですが、彼女の受けた教育は全て無償で、しかも確固たる信念のもとに作られた、特筆に値すべき教育でした。まだ幼稚園教育というものが当たり前でない時に、両親がたまたま新しくできる、実験的な幼稚園の噂を耳にし、レオニーはこの幼稚園に入園しました。後にこの幼稚園は無料の労働者学校を作るのですが、創立者のフェリックス・アドラーはユニークで進歩的な考えをもった人物で、しかも各方面に顔がききました。レオニーはこの学校を卒業後、アドラーの推薦で新しくボルティモアに創立されたブリンマー高校に入学することができました。当時大学教育は女子にとっては危険な思想を植え付けるものとされていましたのであまり志願者もおらず、この高校では毎年成績優秀者上位2名には大学進学の奨学金を約束していました。レオニーの卒業の年には彼女だけが奨学金獲得者で、恐らく彼女は聡明であると同時に、大変な頑張りやだったということが言えるでしょうね。

高校卒業の写真

Q.ブリンマー大学を卒業したのでしょうか?

A.結果的に卒業はしていません。

彼女が獲得した奨学金は、大学での4年間の授業料および生活費を保証するものでした。彼女は1年間フランスのソルボンヌ大学に留学しましたので、ブリンマーでの最後の年の授業料が足りなくなったわけです。そういうわけで、彼女は卒業生リストではなく、「単位未取得学部生」として名簿に名前がのっています。

Q.キャサリンというのは実在の人物でしょうか?

A.はい。キャサリン・バーネルというのはレオニーのブリンマー大学時代の下級生です。キャサリンがブリンマーに入学したのは1894年で、ちょうどレオニーがソルボンヌから帰ってきた年です。彼女の実家はコネティカット州の裕福な家で、母方のスターリングズ家はイエール大学に図書館を寄付しています。キャサリンとレオニーはしばらくの間ニューヨークで一緒に暮らしたこともあり、生涯を通じて友人でした。

Q.ヨネ・野口と出会ったのは、新聞の求人欄を通してですか?

A.そうです。ヨネはニューヨークに移ってきたばかりで、英語を校正してくれる人物を新聞で探していました。

ヨネ・ノグチ、1901

Q.マークス先生はヨネ・野口の『日本少女のアメリカ日記』(1902)の注釈版を出版されていますね(テンプル大学出版2007)。詩人の野口が、小説を書いたのですか?

A.ヨネはこの小説を1~2年前、カリフォルニアにいる時から書き始め、レオニーが仕上げを手伝ったのだと思います。この小説はフレデリック・ストークス社から出版される前年、『レスリーズ・マンスリー』誌に掲載されています。実際にはこの小説はヨネではなく、日本少女が書いたという触れ込みでしたが、そうしようと主張したのは、『レスリーズ』の編集者だったエラリー・セジウィックでした。彼は後に『アトランティック・マンスリー』誌の編集者として成功しましたが、ヨネの小説を匿名としたのは、ヨネにとってはあまり有利に働かなかったようです。

Q.ヨネは本当にレオニーと結婚の誓約を交わしたのでしょうか?

A. はい。誓約書がイサム・ノグチ庭園美術館に所蔵されています。

Q.この誓約書は有効なものですか?

A.ニューヨークの法律で、有効だった時期もあるのですが、2人が交わした時期には法的に無効でした。

チャールズ・スタダード

Q.スタダードというのは誰でしょうか?

A.チャールズ・ウォーレン・スタダードは作家で、ヨネを大変可愛がり、ヨネのほうも「ダッド」と呼んで慕っていました。ヨネがロンドンから帰ってきた時には、彼はワシントンでの教職を失ってニューヨークに出てきていました。映画の中では、レオニーはスタダードを嫌っているように描かれていますが、実際は2人をなるべく会わせないにしていたのはヨネだったのです。

Q.それはどうしてですか?

A.そうですね。まず第一の理由としては、スタダードはゲイなので、レオニーと会わせると嫉妬から口論になってしまうかもしれないからです。松井監督の映画ではそのように描かれていましたが、ヨネの側から考えてみると、本当の危険はスタダードがヨネとエセル・アームズとのロマンスをレオニーに暴露してしまわないかと恐れたからでしょうね。

Q. エセル・アームズとは?

A.エセルというのはヨネのもう一人の恋人です。ヨネはジャーナリストであった彼女とは、ワシントンにあるスタダードの家で出会ったのですが、彼女に一目ですっかり参ってしまいました。松井監督はこのエセルも映画に登場させるつもりで、配役をニコル・ヒルツにあてていましたが(まさに適役だと思います)、どうやら映画が複雑になり、また長くもなることから諦めたようです。

Q.で、結局ヨネはレオニーと結婚したわけですね。

A. そうですね。いったんエセルは彼を拒否し、それから彼女は1904年に、ヨネとレオニーが別れる頃に再び彼の前に現れます。ヨネは彼女にプロポーズし、エセルはこれを受け入れます。彼女がヨネとの結婚を決意して、日本のヨネのもとへ出発しようとしていた、そんな矢先にイサム誕生のニュースが新聞に掲載され、エセルとの結婚の計画はすっかり壊れてしまったわけです。

Q.レオニーはその頃はパサデナにいたわけですか?

A.正確にはロサンジェルス東部のボイル・ハイツです。彼女は、パサデナにある職場でしばらく働いていたことはありますが、実際にパサデナに住んだことはありません。レオニー親子と母親は、ボイル・ハイツに、レオニーの設計でテントを建てて住んでいました。

Q.日露戦争の影響で、日本人に対する反感というのはありましたか?

A.実際には日露戦争中は、日本人は人気がありました。と言うのは、たいてのアメリカ人はロシア人を嫌っていたので、ロシアと戦う日本人を勇敢だと思っていたからです。反日運動は主に労働問題と絡んで芽生えてきたもので、1906年のサンフランシスコ地震までは燃え上がることはありませんでした。しかし、地震以後は反日感情は相当強いものとなり、新たな「黄禍論」が持ち上がりました。サンフランシスコでは暴動がおき、日本人児童排斥問題がおきたりしました。この問題は翌年いわゆる「紳士協定」を結び、結果的にアメリカ本土への日本人移民の禁止ということで決着しました。

Q.レオニーが来日したのはこの頃のことですか?

A.そうです。1907年のことです。

Q.その頃ヨネには、すでに日本人の妻がいたのですか?

A.そうですね。ヨネの妻まつ子とはレオニーが来日する1年前から関係をもっているように思われます。レオニーは最初ヨネにかなり手厳しい拒絶の手紙を送っており、日本に来ることは望んでいませんでした。彼女の気が変わって来日することを決心するまでには時間がかかっているので、その間にまつ子との関係ができたとも言えます。レオニーとイサムが来日した時には、ヨネは2つの家庭を行ったり来たりしていました。が、まつ子に長男が生まれたことを知ったレオニーは、自立しようと大森に引っ越し、その後茅ヶ崎に移っています。

アイレスとレオニー、1920

Q.茅ヶ崎でアイリスを産んでいるのですね。誰がアイリスの父親かは分かっているのですか?

A.誰も知らないと思います。レオニーが秘密を守る理由の少なくとも一つは、アイリスの父親が日本人であった場合、アメリカの市民権を得られなかったということがあるでしょうね。

Q.レオニーのスキャンダルのせいで、津田梅子は彼女を教師として雇わなかったのでしょうか?

A.ドウス・昌代氏はそう考えたわけです。しかし、真相はわかりません。レオニーは梅子の学校のことは知っていました。スタダードに、もしかしたらそこで教えられるかもしれないと書いています。レオニーのスキャンダルは噂になっていたでしょうから、梅子がそのために彼女を拒否した可能性はありますが、その他にもレオニーが梅子の学校で教えなかった理由はいろいろあります。例えば、この学校は今でこそ私立のエリート校ですが、当時はお金もなかったため、たいていの教師は無給で奉仕していました。レオニーは結局大変お固いキリスト教系の学校で教えることになりましたから、スキャンダルがさしてひびいたわけでもないようです。

Q.晩年のレオニーはお金に困っていましたか?

A.そうですね。この当時は皆が貧しかったです。大恐慌の時代でしたから。

Q.マークス先生はどこで松井監督と知り合われたのですか?

A. 監督が映画の資金集めのため松山にいらした時、食事をしながら話をする機会がありました。彼女は僕の研究に興味を持ってくださいましたが、もうすでに映画のストーリーは決まっていました。その後、「レオニー」マネージャー斎藤弘美さんとサポーターと一緒に研修旅行に茨城と茅ヶ崎 へ行きました。凄く楽しかったです。

「レオニー」試写会にて松井監督、
マークス傳法勝子と

Q.映画に対するマークス先生の感想はいかがですか?

A.草月ホールでの試写会の後、松井監督が僕にどうだったかと尋ねた時、僕は撮影も音楽もいいが、真実は70%くらいですね、と答えました。「70%」と言ってしまって、彼女が気分を害したかもしれないと思っていたので、彼女が次のように言ったときには、僕は面喰ってしまいました。「そう、結局はフィクションですからね。真実の物語といっても、映画は決して本物ではありません。70%本当らしいと言われも、80%と言われても、大した違いはありません。私は映画を観た人たちが、もっとレオニーのことを知りたいと思うようになればそれで充分だと思っています。彼女自身が書いたものを読めば、もう少し真実に近づくことができるでしょうね。映画では触れなかった事実を知ることもできるし、映画にもっと意味を見出すことができると思います。」

Q.マークス先生は何回か映画をご覧になったのですね?

A.ええ、今までのところ3回観ています。最初はエミリー・モーティマーの演技がしっくりきませんでした。2度目は、最後のシーンがあまり生きていないように感じました。ところが、3度目にゼミの学生と一緒に観た時は、終わった時に思わず涙ぐんでいました。ヨネ・野口は、日本の詩や劇がいかに観客の「知的共感」に依存しているかについて、しばしば述べています。「レオニー」はまさに、観客の知的共感によって生命を吹き込まれる映画の好例でしょうね。

Q.マークス先生の学生さんはどう言っていましたか?

A.彼らはこの映画は4つ星(5つのうちの)だと言っていました。少しわかり難かった部分もあったようで、例えば、学生の一人は石を削っている年配の男性がイサムだとは気付きませんでした。また2~3名の学生は、時間の流れが複雑でついていくのが難しかったようです。一般的な人気を狙って分かり易く作る映画もありますが、そういうものを犠牲にして気高い理念を追求したような映画を「芸術作品」と人は呼びます。「レオニー」は「芸術を描いた映画」、より正確には「芸術育てを描いた映画」と言えます。

Q.松井監督は芸術についてどう考えていると思いますか?

A.レオニーが幼い頃通った幼稚園について調べている時、たまたま次のような感慨深い一節を見つけました。「世界にとって幸いなことに、絵画や彫刻の芸術家がいるのと同じく、母性の芸術家と呼べる人がいる....だが、そのような母親は稀である。」これはレオニーの幼稚園の師であったファニー・シュエッドラー・バーンズの言葉ですが、この点は、松井監督によって見事に描かれているように思われます。最近の松山での松井監督の講演の後で、僕の妻はこう言っていました。「松井監督はレオニーを映画監督のような人としてみているのよ。だから彼女はレオニーが好きなのよ。」我々の人生はある意味、母に監督される映画のようなものだと言えるかもしれませんね。

Q.マークス先生は今、レオニー・ギルモアの伝記を書いていらっしゃるのですね?

A.そうです。確かに彼女の伝記ですが、同時にレオニー・ギルモアが生涯に書いたエッセイや手紙の収録集でもあります。特に手紙は、ヨネ・野口、キャサリン・バーネル、チャールズ・ウォーレン・スタダードらからのものを収めています。多くは未発表のものですから、これまで知られてこなかった、レオニー・ギルモアという女性の人物像を浮かび上がらせることができると確信しています。

Q.日本語に翻訳もされているのですか?

A.そうです。今翻訳チームを組んで、まさに進行中です。

Q.いつ出版される予定ですか?

A.遅くとも2011年末までには、と思っています。

Q.それは楽しみですね。大いに期待しています。

A.有難う。